ステキすぎる一日②『チャイ・スー −折れない心−』

今日ホンマにヤバイ漫画に出合った。
それが、『チャイ・スー −折れない心−』

先週のモーニングに読みきり作品として出てた作品だが、
今日たまたまダンスshowの順番待ちの間にコンビニで偶然読んだ。
その構成力、熱さ、弱き者への闘志の物語におもわず何回も読み返し、そしてモーニングごと買ってしまった。

『チャイ・スー』とはタイ語の言葉で折れない心という意味。
いつでも自分がいられる避難所を探し、自分から逃げまわっていた高木と
闘って生きる事を手に入れてきたチャナペックとのストーリー。

弱くて、でも自分をなんとか変えたかった高木は、偶然リングで見た同い年のチャナペックに惹かれ、
何かが変われる気がしてチャナペックと同じジムに向かう所から物語はスタートする。

最初はそっけなかったチャナペックも徐々に高木と仲良くなっていき、
お互いの事を話し始める。
逃げてばかりだった高木がほんの、ほんの少しづつ変わろうとして、ほんの少しづつ変わっていく。
けれど、逃げようとする心に押され、諦めかかっていた高木。
そうして物語は佳境に進んでいく。

最後のチャナペックの優しさ、高木の決意が本当に心に染みました。

生まれながらの強者などいない。みんな闘って手に入れるんだ。チャイ・スーを。
マイペンライ。大丈夫。


僕はこの漫画を読むまで、発展途上国第三世界にいる人はみんなかわいそうだ、だから救いたい、と勝手に心のどっかで思っていました。

確かに毎日食べるものも何にもなく、病気や地雷が蔓延している地域もあるけれど、
どこに生きていても、何をしていても、大事なのは『心』なんだって
本当に強く強く感じました。

どこに生まれようと、どんな風な生活であろうとも、『心』がなければ生まれないものも沢山ある。
世界中に生きる誰だって豊かな生活がほしいし、お金もほしいし、かといって幸せな家庭も、仲間もほしいし、夢も叶えたい。
それは当たり前のことだしステキなことやとメッチャ思う。みながそうゆう風に暮らしていけたらそれは本当に最高のことやと思う。

けど、どんな場所にいてもその、当たり前の心を持ち忘れているようだったら、
結局は物や食べ物で短期的に救ったとしても、それだけで終わってしまう。

そして第三世界でもそうなのだけど、豊かな国ほど選択肢がありすぎ逃げる癖がついて、その心を忘れている人が多いのかもしれない。
ついには逃げる場所がなくなり、死ぬことより逃げる意思の方が強くなってしまう場合もある。


その心は、人を思いやる意思、周りを良くしていく意志、生き抜いていく意志。


どんな場所にいても、どこで生まれても、どんな風に生き抜いてても、
心を育てる、心を磨くことが、ずっとずっと人生楽しむ為に誰にでも大事なんじゃないか。

僕の心からなんだか、ただ救いたい、という心が消えたように思えます。
そのかわり、当たり前の心を大事にしていきたい、伝えたいという意思が生まれました。


人ってのは不思議なもので、心の持ちようで本当に全てが変わってしまう。
きっといい世の中になる、なっていく、笑いと楽しさが世界中に広がっていく。
でも、良くしていくのは自分達だ。


今日友達と話していて、うっかりすると忘れてしまいそうな事を再確認しました。
『自分がしてほしいってことを、他人に掛け値なしであげていく。
 もちろん快楽のためじゃなく、本質での嬉しさを。
 そうすれば、喜びは広がり、多くの人が笑顔になっていく。
 そしてまわりまわって自分も含めたみんなが少しづつ幸せになる。
 つまるところ、「他人は自分」なんだ。』

キリスト教の、隣人を自らのように愛しなさいに似てなくもなく
楽観的で、投げやりにも聞こえかねない言葉だけれど、
余計なお世話にも聞こえかねない言葉だけれど、
少しでも相手の為に、と思う優しさは忘れてはいけないと感じた。

もちろんゲームとかでの真剣勝負も必要だし、
失敗とか挫折もメッチャ楽しめる心も必要だって思う。
自分の心を偽る必要もないし、それぞれの心で、お互いの事を思うが故にぶつかりあって仲を深めていく。
自分が真剣勝負をしてほしいから、どんな相手にも全力でぶつかっていく。
そんな戦いの面白さももちろん必要だけれど、
根底には自分の本質の事を思って、相手の本質のことを思ってがあるのだと思う。

何だかうまく言えないけれど、誤解されるかもしれないけど、
今日はそんなことを感じ、思い、学びました。



チャイ・スー。マイペンライね。

今日もいい一日でした。