今日おもしろい文を読んだ。

化学というものは一見不変であるかのように思えるのだが

それが西洋と東洋では全くとらえかたが違うということだという。

日本を始めとした東洋は、事実を追究し誰もが解釈できる真理を追い求めるのだが、

西洋の化学はあくまで『仮学』であり、
必ずしも事実を追究する事が求められるのではなく、

どれだけ斬新な切り口で仮案を提案し、その意見を基に後の世代や見た人がどれだけ影響を受け、色々な人々を成長させ、新しい道を作るきっかけになったかどうかが重要であるという。


つまり事実をどのように解釈していくかが最も重要なのであり、どれだけ世界に時代にインパクトを与えたかどうかが重要なのであるという。


こうなると突飛な意見が沢山出てしまいそうなのだが、こうなった背景には宗教の問題が根底にあるのではと示唆している。


例えばキリスト教を中心とする西洋では、神は絶対的な存在であり、人と神の間には深い深い溝があり、真理には決して辿り着けないという。

ところが禅や仏教を中心とする東洋では、人は死んでも神にも仏にもなれるし、悟りを開けば仏になれる。
神と人の間には絶対的な溝はなく、むしろ真理を追究し悟りを開いていくことで自らを高めることができるのである。


確かに解釈の仕方によるかもしれないが、歴史を紐とけばそういった事が沢山見受けられる。

西洋ではキリスト教の精神もそうだが、ゲルマン人の大移動以来、開拓的でかつ生き残る事が全てで、『自らが新しいものを生み出そう』といった考え方が強いように思える。
アインシュタインガリレオ・ガリレイニュートンエジソン、ベートーベン…。例には事欠かない。

逆に東洋では今あるものに新しい考えやものが加わったとしたら、それを組み入れ今まであったものと組み合わせてよりその利用方に追究していくような気がする。
日本の鉄砲しかりゼロ戦しかり、受け入れようの土台は国によって違えど、あるものを最大限に利用して極めていこうとする精神があるように思える。


どちらがいいとか言っているわけでもないし、平たく言えばどちらも必要だ、と言ってしまいかねない。
本当は西洋の考えを基盤とし、東洋の考えで追究していくのが一番なのかもしれない。

ただどちらにおいても大切なことは、自分達のやり方に固執せず、相手のやり方も知ることではないかと思える。

結局の所、ぶつかり合いはあれど相互が刺激しあって、一つの地域や場所では作り出せない素晴らしいものを生み出しているからである。




…そしてこの事は、このような世界や化学のような大きい事に限らず、世界中のどんな小さなことでも、小さな関係でも、応用しても基礎としても当てはまる、不変の事なのではないでしょうか、

とゆうとこで、コラムでした(>_<)